北国のにおい
久々の連休です。
相変わらず目の前の電話機には「することリスト」の付箋が6枚。(ほんとは7枚。でも貼っていない。笑。)逃避行動は相変わらずで、昨日はブログを見たり、散歩へ行ったりしておりました。(^^;
公園の中を歩いているとき、ふと懐かしいにおいが、一瞬ですがかすめたような気がしたのです。札幌に住んでいたころ。高校生のときに子ども会リーダーとしてキャンプやハイキングへ出かけた時期がありました。あるいは小学生のころ、道庁の庭で遊んだものでした。あの頃のことが蘇るような、北国の森の、秋のにおい。枯葉のにおいとも違って、秋の終りごろ、冬の始まる前の準備のような、主に針葉樹の匂いのような・・。
思わず周りを見回しました。針葉樹は・・と探すと、ヒマラヤスギがありましたが、他は関西にもよく見られるような様々な街路樹。帰りに通ったときには、残念ながらそのにおいは無かったです。ただ、ケヤキの葉がハラハラと舞っていて、「そう急いで落ちなくても・・」と言いたくなるような光景でしたっけ・・。
ネコたちは、というと、相変わらず一日中、よくお休みでした。(^^;
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コメント
枯れ葉がさらさらと風に吹かれているのを見ると
とても切ないと、主人と結婚する前に話していたら
『落ち葉が肩の上に乗ると願いが叶うよ』・・・とかなりいい加減
な事を教えてもらったものです。
その日から、肩に乗るように乗るように歩いた私(笑)
単純明快な生き物です。
猫ちゃんのリラックスなお姿。
気持ちよさそうです♪♪
投稿: hanahana0831 | 2006.11.23 04:10
紅葉が進んで近所のモミジとイチョウはみごとな色に染まりました。
秋の匂い・・・・
>針葉樹は・・と探すと、ヒマラヤスギがありましたが、他は関西にもよく見られるような様々な街路樹。
中学校の教室に平行して北側に大きなヒマラヤ杉がたくさんあり時期は覚えてないけど、匂いを放ってたような記憶があります。
先だって帰省した折に中学を尋ねるとヒマラヤ杉は1本もなかったです。
投稿: beso | 2006.11.23 08:32
なかなか詩を書けないでいましたが、お励ましいただき感謝しています。
今日は冷たい雨が降っています。
それなのにご飯を食べて、ネコたちはお母さんネコに連れられお出かけです。
投稿: 兎谷の黒猫 | 2006.11.23 12:30
★hanahana0831さん、
そちらはすっかり冬へと突入でしょうか?
新しい土地での新しい季節を、どのように楽しまれるのでしょうか。
そうですかぁ・・落ち葉が肩に乗ると、願いが・・。
よしっ!明日から落ち葉を乗せられるように歩こう!願い事の数だけ、だから、何枚乗せたらいいでしょうねぇ・・(^^;
★besoさん、
お散歩のたびに、ゲンキくんと一緒に紅葉狩りを楽しまれているのですね。(^^)
ヒマラヤ杉は根が横に張って、浅いのだそうです。だから台風などが来ると、一気にどさっと倒れてしまうのだとか・・。クリスマスに飾りをつけていた娘の小学校でも、大きなのが倒れ、寂しくなりました。
こちらの近くの公園にもたくさんあったのに、みんな倒れてしまって、実もなかなか拾えなくなってしまって寂しいです。
★兎谷の黒猫さん、
今日は黒猫さんの詩にメロディがついて、合唱団の方達が歌われたのですよね。素敵なコンサートだったことと想像しております。
詩人の工藤直子さんが阪田寛夫さんのことを話題にされ、「詩はいいです。見ているとまるですだれのようで、きれいです」とおっしゃっていたのを思い出しますが、短い言葉に凝縮される思いが、それぞれの人の心にそれぞれの受け取り方で伝わるって、素敵なことですよね。
雨の日でもお出かけのネコさん親子、夜には戻ってくるのでしょうか?今夜は冷えそうですものね・・。(^^)
投稿: pixydust | 2006.11.23 20:00
一枚の枯れ葉さえも
赤茶けた小さな一枚の枯れ葉が、私の足もとに落ちてきた。
よくある偶然です。うつむいていたから気づくこともある。
これは一枚の枯葉にすぎない。どこかの枝から離れて落ちてきたのだろう。やがてまた私を離れていくだろう。うつむいていたから気づくことのできた一枚の枯葉です。悩んだり、悔やんだり、悲しんだりしていたのです。一枚の枯葉、虫くいもある、特に美しいものでもない。しかし、私はこの一枚の枯葉を見たのです。数多い枯葉のなかで偶然に出会った一枚です。救いはいつもある偶然のなかにそれを救いとして見出すことができるか、できないかにかかっている。出会いの偶然はそもそも奇跡です。似たものはあってもただひとつ、そして、一度きりの出会いです。うつむいていなければ発見できないことがある。泥のなかで出会う蓮の花だからこそとうといという人がいる。寒さのなかで、うつむいていればこそ見ることのできる一枚の枯葉さえもまた。私の足もとに吹かれてきた枯葉。私がそれまでうつむいていたことが重要であるように思う。風はあいかわらず冷たく吹きつける。そして、冷たく吹かれていることが重要だ。涅槃がもうなにも語ることすらない静謐や安らぎをいうとすれば、もの言わぬ一枚の枯葉さえもまた。私は冷たい風に目を細めながら、冬枯れる街かどに見捨てられるようにしてある、枯葉を恵みのように思う。いつか散っていく同じ冷たい風に吹かれながら。
(終)
むかし書いた詩です。実はこの詩がホスピスで働くきっかけになったようなものです。目の不自由なお年寄りが入院していて、聖書をベッドサイドで読んでくれる人を探していたのです。私がボランティアでそれをすることになったのです。そのうち、聖書以外も読んでということになって、自作の詩も読むようになりました。そのなかで気に入っていただいたのがこの「一枚の枯葉さえも」。そして、約束が「私が死んだら、この詩を読んでほしい」ということだったのです。カトリックの教会で、ちょうどこんな雨の日でした。そして、ボランティアから仕事へと向かっていったのでした。
投稿: 兎谷の黒猫 | 2006.11.23 21:47
★兎谷の黒猫さん、
貴重なお話をありがとうございます。
その方が黒猫さんと出会い、黒猫さんがその方との出会いで次の出会いへと・・そうしてみんな繋がっているのかもしれませんね。
「はっぱのフレディ」という哲学者の方の書かれた絵本を思い出しました。
結果別れることになっても、離れても、一緒にいても、出会いには意味があって、それぞれが自分の持っている課題を解決するための出会いである、と聴いたことがあります。そう考えると、課題は自分のために用意されたもので、それをどう捉え、どう行動するかも、自分の生き方なのだと。
桜の花が同じ木に咲いていても去年の花とは違う花であるように、人間も大きな宇宙の単位から見たら、瞬きほどの時間に生きたもののうちの一つなのですね。でも、だからこそかけがいがなく、だからこそ愛おしい。
深い心の主である黒猫さんと出会われたその方には、この出会いが本当に意味のあるものだったと思います。
投稿: pixydust | 2006.11.24 17:00